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(SEESAAブログって最近扱いにくいです。)
小学4年生のクラスは、年間コンクール入賞者が、学年最多数となった。
一番多かったのは結果としてで、これなら多くなって当然という実情がある。
B先生の教え振りである。
コンクールが近づくと、事前に、それらしい問題を教わる。
B先生の場合、表現は悪いがミエミエで次のコンクール問題と分かった。
実際、ほぼその問題が出た。
問題は、当時手書きガリ版時代で、先生が共同、あるいは分担して手作りであった。
問題の作者として、他のクラス担任の先生の名前ごと、問題を事前に教わることもあった。
実はその作者の先生が自作したのでなく、その先生が持っている問題集から抜き出し採用された問題であることまで知ることがあった。その先生のクラスの皆ができる。他のクラスは引き離されまいと力を入れ○○先生の問題として学年全部が取り組むようなことも起きた。
世間に問題集など普及していない時代だったが、先生によって、種々持っていた。
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コンクール制度が始まったのが小学三年生そして翌年の四年生にかけて、衝撃的な経験をした。
われらがクラスの年間表彰、
三年生のとき 1名・・・・学年四クラス中の最下位:2年に一回のクラス替えしないときで受け持ち先生だけ交代した。
四年生のとき7〜8名と記憶・・・・学年四クラス中の最高!!
三年1組の受け持ちを、A先生と、同じ児童が1年繰り上がった四年1組の受け持ちを、B(本名○○○○子)先生と申し上げましょう。
プロ野球でいうなら、前年最下位チームが選手補強なしで監督を代えたら優勝 したことに相当する。
B先生は その優勝監督 に相当する。
B先生が次にクラス替え後の新五年3組受け持ちとして繰り上がった。
父母から(といってもあからさまなのは一部)、ぜひ
我が子のクラスを受け持ってほしい、 ないし
我が子を、受け持ちクラスに編入してもらいたい と、声があった。
私自身は、ありがたいことに引き続きB先生受け持ちクラスに所属した。
話を、3学年終業式に戻す。
終業式でコンクール年間表彰があった。
同級生で見事十賞の表彰が一人。
もう一人八賞がいたが、繰上げは九賞までなので、惜しくも落ちたことは知っていた。
私ははるかに少なく、すでに年間途中で年間表彰などよその世界と思いっていた。
狭い校庭の前方にも同級生が並んで、いつもの朝礼に同じく、マイクの声は聞こえても何があるのか私には見えなかった。はじめてのことであり様子も想像しなかった。
表彰者および先生方は前方でハッキリ見ていた。見比べていた。
年間表彰者がそれぞれのクラス前列に出た。
その瞬間、それぞれの人数は、そのまま各クラス担任への年間勤務評定と分かった。
学年ごとにまとまってクラス別に縦列しているから比較しやすい。
多いのは ◎先生のクラス、次が○・・・・、少ないのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A先生のクラス、つまり私たちが最下位だったのである。
他の学年の状況も分かる。学年を超えて、多いクラス相互で、悪いクラス相互に比較できた。
式後、教室で
A先生は、怒っていた。
はじめのうち私自身は何もわからないまま、ぶりぶり言われつつ通信簿やコンクール賞状やらを受け取った。
A先生は時間経過とともに怒りまくっていった。
同級生の一人が、そっと最低だったことを教えてくれた。
A先生は荒れていった。
なんで、あと一つ取れんのだ!
八勝の同級生に先ほど渡した賞状を取り上げ裏返して見てから、そう言った。
なんで、こんなに少ないんだ!
主だった同級生をめぐりつつ賞状を裏返してわめいた。私もその一人だった。
◎今回ここまでとしよう。
ただし指摘できることがある。
A先生は、終業式の当日に、受け持ち児童のコンクール入賞数を知らないでいた事実である。
他クラスの入賞状況も知らずにいたらしい。
こういうふうに認識するのは後日のことで
私自身は、あんなに怒るほど大事なことと知った。
1953(昭和28)年 われらが小学校3年生のときから始まった、年間コンクール制度のあらましを述べる。
☆概要
年間10数回のコンクールを実施する。
年間10回入賞者は努力賞をあたえる。
☆個別コンクール
・日程は、約2週間前に発表・・・○月○日、何時限 科目○○
・学年別の共通テストである(当時のことなのでガリ版印刷)
採点後は直ちに返還される
注)主要四科目(国語、算数、理科、社会)のほか
図画工作(春写生、秋ポスター)
体育(春体力テスト、秋持久走 :各学年男女別各10名)
習字(年 2回) もコンクール対象であった。
また、一度だけ 音楽もあった。(ただしペーパーテスト)
(表彰)
☆個別表彰
・1〜2週間後の、全員朝礼時
・最高学年のトップ1名を代表に、校長から賞状授与(※)
(代表者にもいきなり告げられるし、入賞者の個人別は未発表)
・直後の各クラスホームルームで担任から入賞者発表と同時に賞状授与(※)
※この賞状は各人年間1枚を使い回す
・おもて:賞状 被表彰者名 コンクールで優秀なので表彰する 校長名 が書いてある。
・うら ;枠が20ほどある。櫻の花形の中に賞の大きいスタンプ 年月日 科目 確認欄 が並ぶ。入賞のたび賞のスタンプが増える。サイズは違うが、どこかの商店のスタンプサービスと同じような仕組み。また、「笑点」のざぶとんにも似る。
→父兄の確認もらって返納する。次回の入賞でスタンプがまた増える。
☆年間表彰
・終業式時の全員朝礼
・年間表彰者は全員、各クラス列の前方へ整列:当初は10回入賞者が対象とされたが実際は9回で繰り上げ表彰をした。
・5年生(六年生は卒業すみ)の年間最多入賞者を代表に、努力賞の賞状(バッジ)授与。(※)
※このバッジは、校内では勲章であった。始めの2回(3年生・4年生のとき)で取りやめとなった。また、単年ごとに御破算でなく、累積10回ごとの表彰となった。(繰上げ表彰はやめたらしい。)
☆卒業時表彰
・卒業式の中で
・累積最多入賞者を代表に累積何回入賞という賞状を授与。
◎あらまし上記である。
全体は壮大なシステムの様相にある。
既述のとおり、われらが小学校を卒業後3年、高校進学のとき、よその小学校卒業生よりも多数が、地元の超一番手校へ進学した。
M中学で、はじめて二桁の進学となったので、注目すべき人数増であった。
上記から、われらが小学校卒業生がM中学経由で、超一番手校へ、いままでより多く進学するようになったことから、M中学全体の超一番手校への進学増となったと判断できる。
われらが小学校で、われらの通学していた時期に、顕著な事実があった。
まず掲げるべきは、校長の交代である。
1952(昭和27)年、私が小学2年生のとき校長が交代された。
新任校長は、右高孝一先生である。
校訓を制定されたのは、この校長に間違いない。
強く
正しく
朗らか の三条であった。はじめのころ朝礼時に全校児童が一斉に声を出して校舎の壁に掲示された校訓を読んだ記憶だが、かすかでしかない。その他印象は薄い。
2年生の学年末に、2年生以上対象に作文コンクールがあった。
戦前からつづり方は重視されていたのだから作文コンクールそのものは以前から行われていたかも知れない。
2年生の課題は「おつかい」だった。
ふつうの「おつかい」なら買い物だろうが私には、買い物のおつかい経験に記憶がない。私は、市内の親戚まで一人で電車で往復して、物を借りた往復を題材とした。
受け持ちの先生から何度も書き直しを言われ、その都度初めから書き直したことが5回ほどになった。祖父が病気中で家のだれも作文に手を入れるどころか見てもらうこともなかった。受け持ち先生の添削だけの作品は間違いなく私の当時の言葉使いで、私自身が独力で書いたものだった。その作品が入賞した。
初めてに違いないことは文集が発行されたことである。手書きガリ版印刷で各学年の優秀作品3〜5点だけが掲載された。全校配布された。
私の作品が先頭になった。学年順の先頭が2年生からで、私が2年生の3作品の先頭だった。その文集には@とあり間違いなく、そのときが最初だった。私個人よりも作品のほうが、同じ学年に配布後一ヶ月ほど評判だった。
作文コンクールは以後3年間、毎年実施された。私は2回目、3回目は入賞できなかった。4年生のときが最後だった。
どうも、本人が作るのでなく、親が起草して本人は清書しているだけと思われたことで中止したように思う。課題「お礼の手紙」の言葉使いなど小学生の本人が、叔母様などと使うことは考えにくかった。
作文コンクールは、こんな経過で消滅した。
それ以前にも散発的な科目別の学力コンクールはあったが、3年生から始まった年度コンクール制度は偉大なシステムだった。(次回へ続く)
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われらが小学校を語る。
1951(昭和26)年の入学当時、二部授業だった。
午前か、午後か どちらか だけの授業であった。
正確には、1・2年生だけが二部授業体制だった。一学年4クラスのうち1・2年生8クラスに、4教室しかなかった。3年生以上は各クラスに一教室あった。
教室が足りない。戦災後、教室は一部焼け残った校舎で三部授業から再開したのだという。
校舎は一部再建したがまだ、教室不足の名残りがあった。
1年1組は2年1組と同じ教室を使う。
午前の日、朝礼に出たのち授業後の昼給食で1年1組は終わり、すぐ帰宅する。入れ替わりは2年1組が午後の日である。
午後の日、昼登校時、教室では2年1組が午前の部の最後で給食している。入れ替わって昼給食から始まり授業後掃除して帰る。
おおむね上記が二部授業の毎日だが、午前の日、午後の日は週次、または月次で交代するほか、ややこしいことに臨時の行事に付随して例外の日があった。例えば、映画鑑賞とか、健康診断とか、予防注射とか、一週間のうちある一日だけ午前午後が入れ替わることがある。これで年に数回これを忘れた遅刻があった。といっても、午後の日のつもりで昼に登校して給食だけで帰宅するような、恥ずかしく、なつかしいへまをすることがあった。
1・2年生の教室は、講堂を兼ねていた。1組から4組までの教室の区切りは、板戸で仕切ってあるだけで架けてある黒板を外し、仕切り板戸を取り払うと4クラス分が細長い一室となる。これが、わが小学校の講堂である。学芸会、卒業式は、この講堂を使う。そのとき1・2年生は自分たちの教室がない。
野外・校外学習、休講ないしヤドカリ授業となる。ヤドカリ授業と表現するのは、他の上級生のクラスで体育授業は校庭でするから、教室が空いており、その一時限だけその教室を借りて授業する。
講堂は選挙の投票所かつ開票所としたり、その他何かの公的講演か会議かにも使われて、そのたびヤドカリ教室を求めて毎時限さ迷った。
悲惨なのは、これに雨が重なったときである。たいてい休講にする。
よその小学校では、卒業生60人に一人が超一番手校へ進学した。
(おそらくこれが市内の平均的標準だろう。)
われらが小学校からは、卒業生24人に一人が超一番手校へ進んだ。
「おれの学校良い学校
お前の学校ぼろ学校」 と
そんなざれ歌が双方の小学校にあった。
根拠がない、ないし事実に基づかないで言いまくる。
イジメまでいかなくても自慢するとか、そういうことでこのブログをしたいのではない。
このブログでの私の言うことにはデータ事実の根拠がある。固有名まで出すのは別ブログで提出する。確かめたい人には別ブログのパスワードを提供開示する。
もう一度、認識してもらうために繰り返す。
よその小学校からは60人に一人の割合で300人中、5人が進学した。
われらが小学校からは24人に一人の割合で240人から、10人が進学した。
われらが小学校がよその小学校と同じ割合なら、4人となるはずなのである。
それなのに10人も進学したのだ。
物凄い大差である。
小学校長なら、だれでも、こういう結果を出したいに違いない。
父兄は、だれでも、我が子を、こういう小学校に入れたがるに違いない。
そういう小学校が存在した。
だれでも、学齢期にそこの学区にいたら、私立にでも行かないかぎり、ふつうに通学した、どこにでもあるふつうの小学校にすぎない。
そこで行われる教育は、ふつうの教育で、よその小学校でも同じと思い込んでいた。
そう考えるのがふつうだ。
たしかに特別なことを実施している小学校は存在する。
一輪車をみなが乗りこなす
http://edu.city.ogaki.gifu.jp/nissin/yume/itirinsya.htm
かつて算数教育に注力した
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/mitsuzawa/txt/history.htm
だが、データ事実は、われらが小学校の特異性を示した。
全科目トータルでの総合学力が高いのである。
何か、特別に有効な教育が実施された結果に見える。
われらが小学校には、よその小学校にないことが、あったに違いない。
われらが小学校には、よその小学校にできないことが、できたのに違いない。
どこの小学校でも児童の学力向上には留意注力するはずである。
結果において、データで示したような学力上位者の続出が、卒業の3年後に起きていたのである。
☆強調しておくことは、こういう関連事実をいろいろ知るとき、えてして、固有名から知る。
固有の人物、固有の性向、固有の人間関係などなど・・・そういうことを多く知る。
共通の学級・同級生なんてことは偶然と思ってしまう。
それこそ、まさか3年前、卒業した小学校を一緒にまとめたグルーピングして考察するとして、
同級生が多かったとしても、単なる偶然と思ってしまう。
重要な、あるいは意味のある偶然が存在するだろう。
◎偶然と片付けるべきでない事象が偶然の姿をしていることがあり得る。
(トップへもどる)
もう一つ特記事項があった。
M中学では、卒業生が超一番手校へ二桁進学したのは、この年が初めてだったのである。
その後も毎年、M中学から二桁人数の超一番手校進学が続いた。
数年前までは、せいぜい5名ほどだったのを少し思い切って二桁人数を受験させたら、犠牲者は少数で済み、大勢が合格した。私はそういう第一年目の挑戦者の一人だったことになる。
在校中に聞いたところでは年々模擬テストでは他中学よりも成績が向上してきて、ふさわしい高校を受験させ事実合格者が増加しつつあったようだ。
M中学にとってふつうの一番手校は、すぐ隣接する県立Z高校である。名古屋大学へは数十名進学という。
距離的に近いので、M中生の多くが無理かも知れなくてもZ高校を受験したがった。落ちれば私立覚悟のうえで、挑戦受験者が相当数いた。本人・父兄が強く求めてZ高校を受験し、結構な人数が、うれしい予想外の合格し始めていた。進学者数が年々増加していた。
近隣の中学は、Z高校をめぐる競合に脅威を感じたという。
第一回で述べたごとく、我が小学校卒業生の学力が上昇していたので起きた現象なのである。
超一番手校ばかりでなく、ふつうの一番手校についてもデータは取れないが同じことが起きていたと考える。合格者が増加したのは我が小学校卒業生たちに違いない。
右高小学校長の功績である。
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1960(昭和35)年3月 市立M中学卒業生540名のうち私を含め15名が地元の超一番手高校である県立M高・県立A高へ進学した。(注)
特記すべきことは、15名の内訳として3年前に
5名が左小学校卒、 10名が私と同じ右小学校卒だった。
学力については右小学校のほうが高かった。右高である。
念押しする。
左小学校卒業300名中の5名、右小学校卒業240名中の10名が後に超一番手高校へ進学した。
学力で、明らかな大差で右高であった。
二つの小学校は学区が隣り合う。
学区間に、このような学力大差が発生する理由は考えがたい。経済的な階層差のようなことはなかった。
右高小学校全体の教育は成果において他校に大差をつけたのである。
小学校全体の教育成果の大差であるから、右高小学校長の教育成果をまず指摘し、校長とともに成果をあげた先生たちの功績をたたえる。教え子たちは感謝すべきである。
そうとしか言えない。まさに、その通りなのである。実に右高小学校長の功績としなければならない。
注)M高校とA高校:当時は、地元トップの国立大学である名古屋大学への進学をめぐって両校それぞれ160余名の卒業生を合格させ、トップを争っていた。
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